文化・芸術

2008年5月 5日 (月)

5月5日 端午の節句

子供の健やかな成長願う菖蒲祭

東温市牛渕の浮嶋神社で、菖蒲の葉を供えて、子供達の健やかな成長を願い、相撲を奉納する菖蒲祭が行われました。地元の南吉井小学校の小学校1年から6年の児童62人がまわしを締めて参加し、日本相撲協会の行司、第24代式守伊之助さんが、名裁きを披露して真剣勝負のこども相撲を繰り広げました。

端午(たんご)の節句は、奈良時代から続く古い行事で、端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味でした。しかし、午()と五()の音が同じなので、55日のなったと伝えられます。季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄をさけるための行事がおこなわれ、厄よけの菖蒲をかざり、蓬などの薬草を配り、また病気や災いをもたらすとされる悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る儀式も行われたようです。

武士のあいだでは尚武(しょうぶ=武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになったのです。

玄関前に幟や吹き流しを立てていたものが、やがて厚紙で作った兜や人形、また紙や布に書いた武者絵なども飾るようになっていったのです。さらに江戸時代の中期には、武家の幟に対抗して、町人の間では鯉のぼりが飾られるようになりました。

端午の節句の食べ物は、柏餅や粽です。楚の国の高名な詩人、屈原は国王の側近としてつかえ、人々からも慕われていました。しかし、陰謀の為、国を追われることになった屈原は、ついに汨羅(べきら)という川に身を投げてしまったのです。その日が55日。屈原の死を悲しんだ人々は、たくさんのちまきを川に投げ入れて弔いました。この物語が、端午の節句に粽を作って食べるという風習の起源だと言われています。

中国の故事に「黄河上流に龍門という滝のような急流があり、それを登ることのできた鯉だけが龍になった」とあります。人生の流れの中で遭遇する難関をその鯉のように突破して出世、成功することを意味しているのです。江戸時代から、この「登竜門」のいわれにより「鯉のぼり」を揚げこどもの将来の立身出世を願ったのです。

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2008年5月 4日 (日)

今治の『継ぎ獅子』。

Img35134 「継ぎ獅子」は、獅子の頭をかぶった「獅子児(ししこ)」と呼ばれる子供たちが、大人の肩の上に立って、扇や剣を持って勇敢に華麗な舞いを披露します。

今治の各地区で行われる『継ぎ獅子』は、愛媛県の無形民俗文化財にも指定され、春祭りの大きな見どころのひとつで、全国的にも例を見ない特徴のある獅子舞です。
今から、300年ほど前の江戸時代中期に、伊勢神宮から「代々神楽」の獅子舞の一団が、五穀豊穣を願う伊勢神宮のお札を持って、今治地方の塩田などを訪れて伝えられました。
 

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伊勢の代々神楽は、大人の肩の上に獅子頭をかぶったもう一人の大人があがり、扇や剣を持って舞う「二継ぎの獅子舞」でしたが、今治地方では、村の宝である子供を村人が一致団結して下から支えていく。守っていく。継いでいく。神様がいる天に近づいて五穀豊穣などの願いを届けるという気持ちから、だんだん上へ上へと高く継いでいく「三継ぎ(みつぎ)獅子」「四継ぎ(よつぎ)獅子」「五継ぎ獅子」へと発展して、全国的にも珍しい「継ぎ獅子」になりました。以前は、「六継ぎ獅子」もありましたが、あまりにも危険なので、「五継ぎ獅子」までになりました。
特に野間神社、吹揚神社には各地の継獅子が集結し競演し、見るものを圧倒します。

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2008年5月 3日 (土)

「伊丹十三記念館」

Itama 映画監督や俳優など多彩な活動を続けた伊丹十三の足跡をたどる松山市の「伊丹十三記念館」は妻で女優の宮本信子さんなどゆかりの人たちが、映画監督だった伊丹の父・万作の出身地で、伊丹も高校時代を過ごした松山市に平成19年5月建設されました。

館内には伊丹十三の高校時代の写真や10本の作品を残した映画監督の時代までの資料が展示され、今年5月で開館1年になるのを前に映画の配役を決めるために使われた伊丹直筆のノートなど21点の新たな資料の展示を始めました。Itaminakaniwa 

このうち昭和59年の第1回監督作品「お葬式」の制作に使われた資料をまとめた展示室をリニューアルしました。「お葬式」の配役を決めるために使われたノートには、登場人物や俳優の名前が直筆で書かれていて俳優のキャリアや個性などを考え、配役を決めていった様子がうかがえます。このほか「お葬式」が一般公開される前に受賞が決まったことで当時話題になった映画賞のトロフィーなどが展示されています。

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2008年4月19日 (土)

いい仕事してますよ

Postre_2 No25_3 今日と明日の二日間。午前9時から、砥部町において「砥部焼まつり2008」が開催中です。

砥部焼伝統産業会館・砥部町商工会館で、日用食器から花器などの美術工芸品まで全窯元が約10万点の砥部焼の大即売会を行っています。日常食器から高級品「いい仕事してますよ」まで約10万点が並んでいて、価格は2割引から8割引で目当ての商品を見つけるのは鑑定団みたいです。買い物以外にも楽しめるイベントが満載で、県内物産即売会、ろくろチャレンジコーナー、絵付け体験コーナーなどの催しもしていますよ。

磁器婚夫婦

結婚20周年の夫婦は磁器婚夫婦といって、年代と共に値打ちが増す磁器のような夫婦だそうで、お祝いには陶磁器を贈るといいそうです。

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帰りにニンジニアスタジアムで、愛媛FC対仙台ベガルタのサッカーを観て来ました。ロスタイムに追いついて11の引き分けでしたが、ベガルタのキーパーにコースを読まれて「ペナルティキック止められた」でも仕方ない。私の観戦無敗記録は更新中です。

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2008年3月16日 (日)

松山の春祭りは野球拳

松山の春祭りは、「野球拳全国大会」や「歌謡チャンピオン大賞」など様々なイベントが、
4月最初の金~日曜日に松山市丸之内・松山城周辺で繰り広げられる。その中でも特に注目のイベントは、「大名・武者行列」。大名や武者の姿に変身した行列が松山の中心部を練り歩く姿は、まさに時代絵巻の世界。

野球拳の誕生は大正13年10月。伊予鉄野球部は高松の屋島グラウンドの完成記念近県実業団野球大会に出場しましたが、水原茂らを擁する高松商・高松中のクラブ連合に完敗しました。旅館での懇親会の席で、伊予鉄野球部マネージャーで川柳作家として著名な前田伍健は即興で歌詞を作り、三味線で節をつけ、部員全員にユニフォーム姿で躍らせました。歌と三味線に合わせて野球の姿をキャッチボール、打撃の手振り、身振り、アウト、セーフは審判のマネで表し、ユニフォーム姿での踊りは、宴会の雰囲気にピッタリとマッチして大喝采を受け、夜の部は伊予鉄野球部の圧勝でした。一行は揚々とこの踊りを松山に持ち帰り、松山の料亭で披露したので、以後、宴会芸の定番となりました。

松山の野球拳。3人一組による団体戦で行なう、双方1名ずつが前へ出て「プレイボール!」

の掛け声とともに競技開始。三味線と太鼓の伴奏に合わせて歌い踊る。

野球するなら こういう具合にしやしゃんせ 

投げたら、こう打って 打ったら、こう受けて 

ランナーになったら、エッサッサー 

アウト、セーフ、(野球の塁審のマネをする)

ヨヨイノヨイ(掛け声に合わせてじゃんけんの手を出す)

あいこの場合は「アイコデホイ」と言って繰り返し勝負が決まるまで続ける。

(勝負が決まると)へぼのけ、へぼのけ、おかわりこい

(伊予弁で「へぼ」は下手な奴、「のけ」は「どけ」を意味する)のお囃子と共に負けた者は退場し、次の者に交替する。一方の選手が全て敗れた時点で3アウトゲームセット。

松山の野球拳は、負けても服は脱ぎませんよ。

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2008年3月13日 (木)

東温市・立石狸(たていしだぬき)

とんと昔のことじゃそうな。四国には狐がいっぱいすんどってな人間を化かしちゃあ面白がっとったそうな。ほれが、そのいたずらが段々ひどうなって来たもんでな、あの偉い弘法大師さんが腹を立てなはって、とうとう狐を四国から追い出してしまいなはったげな。それからな、四国に狐は一匹もおらんようになったいうが、かわりに今度は狸がはばをきかすようになったそうじゃ。その狸の話しをするかいのう。立石狸の話しじゃ。
重信(東温市)の立石というとこに、一匹の古狸がおったそうじゃ。よう通る人を化かしては、喜んどったんと。
ある時に、この立石を「おたたさん」が通りかかった。「おたたさん」いうのは、頭に桶を乗せて魚を売って歩く女ごの人のことじゃ。おたたさんは毎日、松前(まさき)からここを通って志津川の方へ魚を売りに行きよったんじゃ。ほれが、毎日通っとる道じゃのに気がついてみたら、おたたさんは何時の間にか、知らん景色のとこに来とるんじゃそうな。すぐ前には、見たことも無いような川が流れとる。
「おかしいのう、こげな川があったろか」 おたたさんは不思議に思いながらも、着物のすそをまくり上げて川を渡り始めたんと。ほしたところがの、なんぼ渡っても向こう岸には近ずかんで、川も段々深うなっていくんじゃ。おたたさんは、桶を頭に乗せたまま、今よりもっと着物をまくり上げた。ほんでも、川は尚も深うなる。おたたさんは、もう格好なんぞかもうてはおられん様になってな、とうとう尻をからげて、ザブザブと川を渡って行ったそうじゃ。ほしたらその時じゃ、後から誰ぞが声を掛けた。
「あんた、尻まる出しにして、そこで何しよるんぞな」振り向くと、村のお百姓じゃ。
「川が深うて、困っとるところよ」
「何とな、川とな、川なんぞ何処にあるな、ここは畑ぞな、恥ずかしいけん、早よ着物をおろしなはらんか」
おたたさんは、たまげて辺りを見回した。するとどうじゃ、そこは白い花が一面に咲いとるソバ畑じゃないか。「あんた、立石狸にだまされたんじゃがな」 お百姓の言葉に、おたたさんはハッとして頭の上の桶を見た。案の定、中の魚は一匹も残っとらなんだと。

200802 東温市にある「坊ちゃん劇場」で「我輩は狸である」が公演されていたが、ひょっとして立石狸も出演していたのかもねっ。

Touonnanohana 

坊ちゃん劇場の裏は300万本の『菜の花畑』です。

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2008年2月17日 (日)

「マツヤマ!」と叫んで投降する

「椿まつり」が終わり。古老の家で鍋パーティをするのでと誘われた。鍋の材料は揃っているらしく、飲みたいものを持ってくれば好いとのことで缶ビールを持参したが、すでに、古老の友人が農機具置き場の奥にある8畳ほどの部屋に陣取っていた。薪ストーブでお湯を沸かして焼酎のお湯割りが人気らしく、缶ビールを持参したのをちょっぴり悔やんでいると、古老の友人が「のどの渇きにいいやね」と慰め?の言葉をかけてくれたが、伊予弁では無いのでストレートに私に伝わった。「皆さん気を遣わずに伊予弁でいいですよ」と言うと、一人の古老が「普段は標準語を喋りよるけん」「かまんのよ」とのことであった(笑)。

古老たちの話は、昔ばなしが多いが、私も聞くのは嫌いではない。日露戦争の話になり、爺さんが戦艦三笠に乗っていたという古老がいれば、秋山 真之・秋山 好古兄弟の話も出てくる。さながら「坂の上の雲」である。「マツヤマ!」と叫んで投降するロシア兵もいたと言う話になり、日露戦争の時に初めて収容所が開設され、初めて捕虜がきたのが松山であったという。当時の日本政府が、ロシア兵捕虜を大いに「優遇」したので、捕虜が市内の中学校に来校したり、運動会を見学したりと百年も前から国際交流スポーツ交流ともいうべき自転車競走会が道後公園で行われたという。

(明治32年)のハーグ条約にもとづいて捕虜を人道的に取り扱うことを日本・ロシアを含む三十カ国が承認して調印したが、松山では、特に県からも通告が出されて、軍人、警察官や県庁の役員、民間人にも徹底され、子どもにまで守ることの指導をしたので、世界で初めてハーグ条約の精神を忠実に実行し手本を示したという。

ハーグ条約を忠実に守ったことで、ロシア兵に松山の収容所は好待遇ということが知れ渡り、投降する際には「松山」に収容されることを望んで「マツヤマ」と叫んで投降するロシア兵がいたという。

史実に基づいた、さらっとした自慢話だが、さすがに松山は文化人の町である。

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2008年2月16日 (土)

[中予の人はほどほど主義]

伊予弁に、仲間内で馬鹿なことをする人のことを指す「よもだ」と「はせだ」がある。      

「よもだ」は「とるにたらないいたずら者」をという。「よもだ」は体制のなかに安住しながらもどこか憎めない人間像として、出た釘として打たれる存在ではない。

「はせだ」は、仲間から相手にされなくなる程のはみだした者にたいしての「仲間はずれ」の意味の言葉である。

このため、現実をしっかりと見すえ、非現実的な夢を描かない。日常を大切にして道を踏みはずさない、身の丈と同じくらいの夢を実現しようと努力し、世間からはみださないよう、まわりを確かめ、焦りのみえないのんびりとした生活をおくり、ちっぽけな夢、ほどほどの夢で満足するのが中予に住む愛媛県民でしょう。

このことは、司馬遼太郎が「花神」で「どのひとびともひと前に張り出して自分を誇示することをせず、それがために天下に知られずにおわっているひとが多い」「十万石の小藩だが、仙台からここへ移ってきた江戸初期いらい、民治がよく、学問がさかんで、江戸期の天下を分治していた二百数十の諸藩の優劣でいうと、たとえば時計のような、精密機械の印象をもった藩である。(中略)南伊予の温暖な気候風土の影響をたっぷりうけて、士も農もここほどおだやかなところは、ほかに類がない」と記述している。


全国から松山に転勤して来た人が、定年後に松山に住みたいと思うのもうなずけるものがあります

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2008年2月14日 (木)

愛比売命(えひめのみこと)

「椿まつり」参道の露店での大宴会で、地元の古老から「日本昔ばなし」を拝聴した。昔、昔、このあたり一面は海が広がっていて、この丘に夫婦の神様が船を漕ぎよせた、境内には椿が多いが、椿神社の名の由来は「津の脇」「津」は海のことじゃそうな、つのわき、つわき、がなまって、つばき、お椿神社のはじまりじゃそうな。

祭神は、伊豫豆比古命(いよずひこのみこと)、伊豫豆比売命(いよずひめのみこ)伊与主命(いよぬしのみこと)、愛比売命(えひめのみこと)4柱じゃそうな。昔は旧正月8日のみが斎行日であったので、未だに年寄りは「お八日(おようか)」と言っているそうじゃ。


明治になって、廃藩置県で県名策定に際して、古事記・日本書紀にも記されている椿神社の御祭神の一柱、愛比売命(えひめのみこと)から現在の愛媛としたのが、県名の由来じゃそうな。

都道府県名に御神名を冠されたのは、愛媛県だけじゃそうな。

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2008年2月13日 (水)

「伊予路に春を呼ぶまつり」

今日から 「椿神社」「お椿さん」正式名称・伊豫豆比古命神社の春祭です。

初日の午前0時に大太鼓で開始を告げられて以来、最終日の24時迄、3日間72時間、昼夜を徹しての祭りで、一般的に「椿まつり」と呼ばれている。 

「立春に近い上弦の月の初期」と月齢を定められているが、現在は、旧暦正月8日を例祭日として、その前後の3日間斎行されているが、厳しい寒さも峠を越すことから「伊予路に春を呼ぶまつり」と言われている。

コロロ大佐もご近所殿と一緒に、お参りに行ったが、顔見知りの露店で飲んだ寒さしのぎの熱燗一杯が、二杯、三杯になり、そのうち、お参りに行き来するご近所殿の知り合い、コロロの知り合い、またその知り合いが集まって、いつの間にやら大宴会になってしまった。皆、日ごろは話さない伊予弁が・・・、それも中予、東予、南予とことばの「揺れ」の幅広いこと、伊予弁は「さい・ねや・ほうけ」というけれど、コロロ大佐としては、笑って聞いているしかないぞなっもし。

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