2008年5月13日 (火)

「日帰りカツオ」20分の沈黙

松山空港近くの南吉田町の畑の中に飛行機が入る掩体壕が残っているが、この紫電改が入っていたのかも知れない。平和への語り部として展示されている遺影に思わず手を合わせる。展望タワーは、宇和海が360°眺望抜群でなかなか楽しい。御荘との間に、海上ロープウェイがあった。観光資源として残して欲しかったが、3年まえに廃止になっていた。他にも観光客が来ていたが、言葉の語尾に「き」とか「きに」が付く。愛南町は愛媛の一番南。高知の宿毛が近いので、高知弁が混ざっている。作兵衛さんに「日帰りカツオ」が待ちよるで、と急かされバスは一本松温泉に向かった。作兵衛さんがしきりに「待ちよれよ」と言って、たらふく食べてやるぞっと気合を入れている。いざ「幻の日帰りカツオ」である。友人がよく行くという鮨屋の二階に上がった。直径70センチ程の皿に「幻の日帰りカツオ」がこれでもかと盛られている。日帰りカツオは156Kgのかつおをいうが、頭から尾まで780センチはある。普通、皿鉢料理は色々と食材が盛られているが、3皿とも全部「かつお」である。Saramori_2 ビールで乾杯したが、その後は、皆、黙々と食べている「美味い」。20分ほどの沈黙の後「これなら嫁を質に入れるどころか、売ってでも食べたい」「買い手がおらんじゃろ」「逆に放されるんぞ」と冗談話と笑い声が聞こえた。店主が檜扇(ひおうぎ)貝を持ってきた。「友達がつくりよるんよ、愛南の一押しじゃき」ホタテより少し甘くてこれも「美味い」Hiougi4_2 店主が話しだした。「相撲の豊ノ島は宿毛の出身で息子の同級じゃき応援してよ」元記者さんが「長い名前の学校があったが近くですか」店主が答えた。「高知県宿毛市愛媛県南宇和郡愛南町篠山小中学校組合立篠山小学校と中学校よ」「地元じゃ篠山小、篠山中というけんど」私は思った履歴書に、正式名称を全部書くのだろうか。(つづく)

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2008年5月12日 (月)

愛南「びあびあ」ツアー前編

愛南町の友人から「びあびあ」入ったよっ。とのメールで「幻の日帰りカツオ」を食べに行くツアーが急遽決定した。西条から3名、東温1名、松山2名、伊予2名、松前2名の計10名。元観光バスの運転をしていた西条の友人が小型のバスを調達してきたので、西条から順番に松前まで、順々に合流して行くことになったが、西条の元新聞記者さんと東温の元官僚さんも来ている。松前から作兵衛さん(麦を作っているので作兵衛さんとあだ名が付いた)が合流してきたが、バスに乗るなり「嫁を質に入れてきたけん今日は独りぞな」と言ったので皆が急に和んだ。江戸っ子は初鰹を「女房を質に入れてでも食べたい」と言ったというが、皆さん、奥さんを質に入れてきたのか今日のツアーは男ばかりである。

伊予市から大洲まで高速道路で約30分、宇和島まで56号線で約1時間半、愛南町まで約1時間。松山から愛南町まで車で3時間半から4時間。このあたりにも高速道路を延ばし、四国内を8の字を描くようにネットワーク化する8の字ハイウェイ構想があるが、出来るのは何十年も後であろう。今日は生憎の雨で、松山は小雨。いつもの事であるが、宇和島を過ぎたあたりから雨が徐々に大粒になってきた。太平洋岸を低気圧が通過して雨が降るときは、松山では米粒ほどの雨でも、太平洋岸の雨粒は、飴玉ほどの雨粒である。Sidenkai Sktenzi 

作兵衛さんが、紫電改を見に行こうと言い出した。紫電改といっても育毛剤ではない。昭和38年頃に、漫画誌『週刊少年マガジン』に連載され人気作品だった戦争末期の日本の戦闘機、紫電改のタカの紫電改である。Nanreksidenkai 

昭和53年に久良湾で発見、引き上げられた紫電改が宇和海展望タワーのある馬瀬山山頂に恒久平和を願うシンボルとして展示されている。すぐに多数決で見に行くことになった。(続く)

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2008年5月11日 (日)

人面岩は「力石 徹」 似

JRの出石駅から、豊茂方面。出石寺に向かうと、須沢へ行く分かれ道に出合う。その三叉路の左側の山肌を見上げると人面岩は、ちょうど正面に小さく目に入ります。Jinmenkanban_3 Jinmenyama12_2 かなり高い位置にあるのでともすると見逃してしまいがちですが、この人面岩は、自然にできたものでなく、人の手で造られたもので、目や鼻、唇などがくっきりと浮き出て、あしたのジョー」に登場する力石 徹りきいし とおる)の顔と似ているsign02coldsweats01彫りの深い顔をしたこの岩(高さ約5m、巾3m)山肌から県道長浜保内線沿いを見下ろしています。

人面の製作者は、『力石力造』(ちからいしりきぞう)。彼は、文政元年(1818年)現在の豊茂楠ノ木に生まれ、幼少のころから大変な力持ちで『大力』(だいりき)と呼ばれていました。Jinmenap_2 Jinmeniwa_2

大洲・長浜地区で石工を主な生業とし活躍した、田畑から屋敷・道路の石垣など、持ち前の力と器用さで見事な石組みをする名工で、豊茂から櫛生に抜ける旧道の完成記念に、今から155年以上前に作ったとのことです。ちなみに、『力石力造』という名は、当時の大洲藩12代藩主加藤泰幹が、大洲城の石垣工事に来ていた力造の力量を見とめて、「力」+石工の「石」→「力石」の苗字を与えたそうです。

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2008年5月10日 (土)

「オケイチャンはね」

Img7060 松山恵子、という歌手をご存知の方も多いと思います。私は小学生の頃に父母と姉と大阪の新歌舞伎座へ観に行ったことがあったが、周りの観客の女性が「お恵ちゃん」と叫んでいたのを覚えている。その頃、泣いていると「あんた泣いてんのね」と言い「だから云ったじゃないの」と言う。これは、「お恵ちゃん」の代表曲の一つ「だから云ったじゃないの」の歌詞で「あんた泣いてんのね」は当時の流行語であった。

Okeician 松山恵子は1937年4月10日。東京で生まれ、父親の故郷である宇和島市へ転居し、小学生、中学生の時には、歌唱力抜群の天才的少女として有名だった。54年、全国歌謡コンクールで優勝。55年、「マドロス娘」で歌手デビュー、独特の歌唱力とさわやかな笑顔で注目をあつめ、翌56年の「十九の浮草」が大ヒットし、57年「未練の波止場」でNHK紅白歌合戦に初出場。その後、「だから云ったじゃないの」「お別れ公衆電話」など数多くのヒット曲を歌い、幅広いファンに親しまれ、庶民派の歌手として人気を博していたが、1969年に交通事故で重傷を負い、この時の輸血が原因でC型肝炎を患うが89年に、再び紅白歌合戦に出場(通算8回うち7回連続出場)した。この時のドレスにバラの花を飾った直径2メートル半のド派手な衣装が話題を呼んだ。90年代後半に、肝硬変から肝臓がんへと病状が進行したが、歌への情熱を失わず、不屈の闘志でステージに立ち続け、95年に日本レコード大賞功労賞を受賞した。裾幅3.5メートル、重さ20キロ以上のフリフリドレスでトレードマークのハンカチを振り、自分のことを「オケイチャンはね」というステージ姿は、その歌に対する情熱とともに、年齢を全く感じさせなかった。今年3回忌を迎えるが、200657日に亡くなるまで「お恵ちゃんのことを悪く言う人は一人もいない」と言われるほど、性格が良いことで知られ、観客・ファンは勿論スタッフにも常に優しく接し、芸能人にもファンは多かった。

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JR宇和島 駅の構内に、ヒット曲「お別れ公衆電話」を記念した電話ボックスが設置されているが、時代の流れか現在は携帯電話の充電器が設置されている。また、今日の午後745分から915分までBS2で「歌伝説松山恵子の世界」が放送されます。

 

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2008年5月 9日 (金)

『ビアビアカツオ』

Katsuo 愛南町の友人から「びあびあ」入ったよっ。とのメールが来た。びあびあかぁ。右脳か左脳か知らないが、脳内の「美味しいぼ」の記憶がグングン目覚めて来た。思わず「土日に行きます。またメールします」と返事してしまった。愛南町の深浦港では、獲ったカツオが最短・最速で三時間で漁港に戻れるため最短・最速のカツオは、「幻の日帰りカツオ」と呼ばれる超新鮮なカツオが手に入ります。

Katsuo5 カツオと言えば、土佐・高知と思いますが実は、愛南町が四国一の水揚げ量を誇っていて、中でも、初カツオの入荷は日本一だそうで、高知の漁船も深浦漁港に水揚げします。

Biabia 愛南町の「町の魚」に指定されているカツオ。新鮮すぎて包丁が入らないくらいの身の状態であることから、地元では『ビアビアカツオ』とも言われ身が舌に吸いつく本当に絶品な食感で「今まで食べたカツオは本当のカツオの味ではなかった」と錯覚するほどの美味しさです。

「幻の日帰りカツオ」を一泊二日で食べに行く予定ですdelicious

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2008年5月 8日 (木)

[酢卵の作り方]

昨日、電話があった内子のIMさんから割れ物注意の宅配便が届いた。開けてみると、卵。それも烏骨鶏の卵が五個。烏骨鶏のSMAPを思い出した、ならば私も孵化させてTOKIOとでも名付けるか。子供の頃、祭りで「ひよこ釣り」なる夜店があり、みごとひよこを釣り上げて、裏庭で飼っていると、大きく育って朝方「コケ、コッコー」と鳴き出し、親から近所迷惑だと言われて、泣く泣く、鳥肉店へ持って行った記憶が蘇った。それ以来、成人するまで、かしわ(鶏肉)を食べる事が出来なかった。すでにコタツは片付けたしと思いながらパソコンを開くとご主人のIKさんから[酢卵の作り方]というメールが来ていた。

Sutama [酢卵の作り方]

烏骨鶏の卵を洗い、リンゴ酢1合に対し、卵1個を殻のまま浸します。

酢に浸すのは3-4日、長くて1週間を目処にしています。長期間、浸すと黄味が固まってしまいます。泡や赤い色素が浮いていますが、飲んでも問題はありません。気持ちが悪ければ取り除いて下さい。卵殻が溶け、残った薄皮を爪楊枝で突ついて破り、取り除きます。残った酢、卵白、黄身を良くかき混ぜて酢卵の出来上がりです。酸味と苦みがあって多少、飲み難いですが、水やミルクで薄めるか、若しくは、蜂蜜やオリゴ糖を入れると飲み易くなります。ミルクで薄めると、ヨーグルト風になります。

私達は酢卵と蜂蜜をジューサーでかき混ぜ、それを冷蔵庫に保存し、当初は水で薄めて飲んでいましたが、今は慣れてストレートで飲んでいます。野菜ジュースやミックスジュースを作る時には、その素材として使います。1合の量は1週間を目安に飲んで下さい。

酢卵の料理への利用方法があれば、教えてください。

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[酢卵の効能]

高血圧や血糖値の高い人、糖尿病、肝臓病の気配を感ずる人は是非、酢卵を試してみて下さい。神経痛やリュウマチ、老人病、成人病、骨粗鬆症にも良いと言います。卵の黄味は痴呆症やアルツハイマーの予防に効果あり、カルシウムの摂取不足を補います。

作り方から効能まで教えて戴いたが、3個を酢卵にして2個は「たまごかけごはん」で頂きました。「たいへんおいしゅうございました」

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2008年5月 7日 (水)

鳥骨鶏にSMAPの名前

6日夕方に、3年前に東京から内子町に移住しているIMさんから久しぶりに電話があった。東京から遊びに来ていたお孫さんを松山空港へ送りに来たという。帰りに衣山のシネマサンシャインで映画「相棒」を観ていたら、私の事を思い出したらしい。IKさんの奥さんは「杉下右京」の大ファンでご主人は「亀山薫」の大ファンだそうで、私の顔が二人を足して二で割ったような顔だと常々思っていたそうで、急に声を聞きたくなったそうである。ご主人は茨城、奥さんは東京の出身で、ご主人は商社で定年を迎え、奥さんは確か看護師さんだったと記憶している。ではなぜ、関東から四国、そして愛媛の内子へ移住したのか、以前に聞いたことがあるが、1,四国は地震が少ない。2,物価が安い。3,食べ物が新鮮。特に奥さんは愛媛の内子という名前が気に入ったと言っていた。実際に住んでみると、人がのんびりとしていて暖かいとも言う。ご主人は東京で暮らしているときは「わしも族」だったらしいが、愛媛に来てからは、奥さんが「わたしも族」でご主人の行く所に付いて行くという。小さいながらも畑仕事をして、最近では、鳥骨鶏を飼っているので忙しいらしい。

Ukosmap_2 東京からのお孫さん(小学3年生)の話になったが、お孫さんが冬休みに来ていたときに、鳥骨鶏の卵が孵化して、お孫さんが鳥骨鶏にSMAPの名前を付けたという。Ukotuyosi_2

Ukokim_3 東京に帰ってからも再々メールで成長を聞いてくるので、写真を撮ってメールで送っていたら、連休を利用して羽田から一人で飛行機に乗り鳥骨鶏に会いに来たという。また、この五羽の鳥骨鶏はお孫さんの行くところに付いて歩くという、鳥は初めて見たものを親と思う習性の「すり込み」があるが、もしかして『鳥骨鶏』にも、「すり込み」があったのではと笑っていた。IKさんちの鳥骨鶏は自家製のケールやほうれん草、ひじき、カキの殻、だしジャコを乾燥させた魚粉などを食べていて、いたって健康だそうである。

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2008年5月 6日 (火)

蛇口からポンジュース

Pom Pom1 「愛媛県では、水道の蛇口からみかんジュースが出る。というのは本当ですか」と問い合わせのメールがありましたが、答えは、「出ます。」

みかんの産地らしい冗談話が噂として県外で広まっているようですが、これは、「愛媛県では、水道の蛇口からみかんジュースが出る。」という噂話に、特産のみかんなどかんきつ類をPRしようと、地元の飲料メーカーと松山空港が協力して設置したもので、今回で3回目です。

松山空港の2階にある出発ロビーにみかんジュースが出る蛇口が設置され、空港の利用者や、大型連休を愛媛県内で過ごした人たちを楽しませています。6日は、蛇口をひねっておよそ160リットルのみかんジュースをコップに注いで味わっていました。

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愛南大漁まつり

「愛南大漁まつり」 54

Ainan1 南宇和郡愛南町の御荘湾では、およそ2万人が集まり、恒例の網や手でタイやハマチを捕まえる立て干し網やかつおフェアが人気の愛南大漁まつり開かれました。この「立て干し網」は、干潮に合わせて長さ700メートルの網で湾を仕切り、潮が引くのを待って逃げ場を失った魚を捕まえる伝統的な漁法です。Ainan2_2 

Ainan3 午前9時15分。漁の開始を告げる花火を合図に、網を手にした大勢のにわか漁師たちが勢いよく海に入っていきました。網で仕切られた湾内には天然のボラやチヌのほかタイやハマチなどが2000匹、アジが2万匹放流されていて参加者らが腰まで水に浸かりながら魚を捕まえていました。Ainankatuo

また隣接する南レクロッジのかつおフェアの会場にはカツオの町・愛南町らしく、今朝水揚げされたばかりの新鮮なカツオ1500匹が用意され、浜値近い値段で販売され、カツオのたたきの試食やカツオどんぶりの食事コーナーも行列が出来ていました。

五十崎大凧合戦 55

内子町の豊秋河原で、子どもの日の恒例いかざき大凧合戦が行われました。この大凧合戦は400年以上の歴史をもつ伝統行事で、大凧合戦の起源になっています。今年、初節句を迎えた子供達137名分の名前が書かれた出世凧5統が、子供達の健やかな成長を願って次々と大空を舞いました。そして午後1時、いよいよ大凧合戦がスタート。小田川を挟んで行われるこの合戦は、凧の糸に「ががり」と呼ばれる独特の刃物をつけて互いの糸を切りあいます。今年は、およそ600統のけんか凧が風に乗って大空を舞い、参加者たちは河原や川の中を走り回って、糸を張ったり緩めたりしながら、けんか凧を巧みに操って相手に勝負を挑みます。勝負がつくたびに約4万人の観客からは盛んな歓声が上がっていました。 

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2008年5月 5日 (月)

5月5日 端午の節句

子供の健やかな成長願う菖蒲祭

東温市牛渕の浮嶋神社で、菖蒲の葉を供えて、子供達の健やかな成長を願い、相撲を奉納する菖蒲祭が行われました。地元の南吉井小学校の小学校1年から6年の児童62人がまわしを締めて参加し、日本相撲協会の行司、第24代式守伊之助さんが、名裁きを披露して真剣勝負のこども相撲を繰り広げました。

端午(たんご)の節句は、奈良時代から続く古い行事で、端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味でした。しかし、午()と五()の音が同じなので、55日のなったと伝えられます。季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄をさけるための行事がおこなわれ、厄よけの菖蒲をかざり、蓬などの薬草を配り、また病気や災いをもたらすとされる悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る儀式も行われたようです。

武士のあいだでは尚武(しょうぶ=武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになったのです。

玄関前に幟や吹き流しを立てていたものが、やがて厚紙で作った兜や人形、また紙や布に書いた武者絵なども飾るようになっていったのです。さらに江戸時代の中期には、武家の幟に対抗して、町人の間では鯉のぼりが飾られるようになりました。

端午の節句の食べ物は、柏餅や粽です。楚の国の高名な詩人、屈原は国王の側近としてつかえ、人々からも慕われていました。しかし、陰謀の為、国を追われることになった屈原は、ついに汨羅(べきら)という川に身を投げてしまったのです。その日が55日。屈原の死を悲しんだ人々は、たくさんのちまきを川に投げ入れて弔いました。この物語が、端午の節句に粽を作って食べるという風習の起源だと言われています。

中国の故事に「黄河上流に龍門という滝のような急流があり、それを登ることのできた鯉だけが龍になった」とあります。人生の流れの中で遭遇する難関をその鯉のように突破して出世、成功することを意味しているのです。江戸時代から、この「登竜門」のいわれにより「鯉のぼり」を揚げこどもの将来の立身出世を願ったのです。

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